1999年8月号  目 次:1999年1月〜12月)

定例研究会報告

78SD定例研究会の報告は、以下の通りでした。
発表テーマ:「日本のODA −アジア経済危機以降の新しい経済協力の方向−」
報 告 者:尾村 敬二(アジア経済研究所 経済協力研究部長)
  時:1999717日(土) 13:3017:00
出席者数: 16
1. アジア経済危機の評価
 昭和43に研究所に入って、経済協力を一環して研究しているが、なぜかインドネシアの政治の専門化と誤解されていて、テレビでよく引き出される。しかし、専門は経済協力で、APECを中心とした研究を行っている。

(1)アジア経済危機の経過
 アジア諸国のアジア危機後の経過は概ね順調であると言える。インドネシアはアジア危機が暴動寸前の国家危機まで行ったケースだが、最近は概ね落ち着いてきている。しかし、マクロ経済的に見た場合、為替や金融の基幹部分への影響や経済の根幹部分の再建はまだまだの状態である。物価が上がっているので、インドネシアが元に戻るのは難しいが、安定してきている。韓国の場合は、アジア危機前の水準を回復し、それ以上の株高水準に戻っているが、これは株式市場に上場している企業が淘汰された結果、株式市場に優良企業しか残っていないためにこうなっている。為替レートは回復しつつあるが、金融制度改革の遅れがあり、金融システムが崩壊しているので貸し渋りが起き、実物経済は低迷したままになっている。 

(2)危機の原因
 危機の原因だが、アジア諸国はまだ経営技術や金融技術が低い水準であった。特に金融管理や金融政策が弱かった。また、金融技術も未熟のままであった。90年代まで世界的に経済低迷が続いている中で、東アジアのみが78%という高い水準の経済成長を続けていた。MITのポール・クルーグマンのように警告を発する経済学者もいたが、世銀のMiracle of East Asia(東アジアの奇跡)というレポートで、東アジア経済の発展が永続するような錯覚が生まれてしまい、国際投資筋の短期資金がどっと流れてきた。いわゆるヘッジファンドが多量に流れてきた。例えば、インドネシアではcommercial paperを自由に発行できるしくみで、為替の管理もしていなかった。スプレッドで3-4%で借りまくっても実質金利はそれ以上だったので、かなり利幅を上乗せできた。つまり外から金を借りて預金するだけで儲かるしくみだった。

 タイはそれまで続いていた貿易黒字から’96年に赤字に転落していた。ただこれだけではそうひどくなるはずはなかったが、中国が元を切り下げ、タイと中国とは国際市場で競合関係にあったため、この元の切り下げでタイは中国に負けてしまった。

 実は、今までにもこのような大幅な危機があり、例えば’94年にメキシコ危機が起き、現在はアルゼンチンがおかしくなっている。しかし、今までの危機は1国内で収まっていたが、アジア危機は1国内だけでは収められなく、アジア全体に一気に広がった。

 アジア危機対策のための緊急援助措置として投入されたインドネシア等へのIMFのホットマネー(3年後には返済義務がある)は効果を上げたが、一方でモラルハザードを引き起こしている側面がある。インドネシアは本来であれば、対外投資分の資金(2,600億ドル)を戻せば十分赤字を解消し、借金も返済できるはずだが、不当に海外持ち出しを行ったものであることと、外国に逃避しておく方が安全で儲かるため対外投資が外国に残されたままでになって。また、プルタミナという石油公社(日本の天然ガス市場の8%を供給している)はシンガポールとの貿易で7080億ドルの使途不明金があり、これらを合わせていくと2,600億ドルは優に超えた金額になる。韓国でも資金の海外逃避が財閥の手で行われているが、持ちかえると没収されるので、持ちかえれない。

(3) 危機から得られた教訓と将来の不安
 アジアの成長は、貿易志向(貿易黒字)による経済開発により順調に進んできた。いわば日本型経済成長をアジアが見習って成長してきた。最大の輸入国である米国もソ連との対決で忙しく、アジアには経済的な関心があまりなかったので、この貿易黒字を見逃していた。また、日本とアジア諸国の貿易黒字の規模が違うので、日本だけを叩けばよかった。しかし、ソ連の崩壊後、この状況は変わってしまった。世銀レポートの中で称えられた20世紀型開発戦略は挫折し、同じやり方は通用しなくなった。
 一方、今回の危機に対し、IMF側も、予めアジア危機を予測できなかったという反省を持っている。また、Letter of Intendconditionarityは画一的で、それぞれの国の状況をあまり考慮しようとしなかった。どこの国に対しても、高金利、緊縮金融、small governmentといった政策を押し付け、政府補助(食料への補助金等)を止めさせた。インドネシアの場合、庶民への灯油補助金を廃止した途端に暴動が起きてしまった。すなわち緊縮政策をやって事態を悪化させてしまったという反省がある。

 さらに、インドネシアの場合、IMFが条件として出した金融改革も進まず、金利もあまり下がっていない。

 このような中、経済ナショナリズム復興の可能性や地域経済協力縮小の気配が懸念されるようになっている。

 

2. 国際経済協力の課題と枠組み
(1) IMFIBRDWTO及び米国主導の援助方針
 ネオクラシック(市場メカニズム至上主義)がブレトンウッヅ体制後固まった。世銀(IBRD)は米国のイデオロギー支配を受け、ワシントン・コンセンサスで全部が決まるという時代になってしまった。

 さらに、ル−ブル協定で欧州、日本はバスケット方式(管理レート方式)を主張したが、米国がルーブル協定から一方的に抜け出てしまった。今やドル一極支配の世界となってしまった。米国経済がいつまでも順調に行くということはあり得なく、必ず調整局面が出るが、これにより、アジアやラテン・アメリカは大きな影響を受けることになるであろう。通貨の多極体制があってもいいが、残念ながらエクウスも円もまだ国際決済通貨として認知されるまでには至っていなく、米ドルの一人勝ちである。

 円が国際通貨になる可能性は低い。円は使い勝手が悪く、金利がゼロであり、しかも、円での国際貿易の決済がないので、円に対する需要がなく、円の国際通貨化は無理と言わざるを得ない。グラビティ・モデルでアジア経済を分析した結果、円取引は日本と韓国、日本とアセアンといった2対関係しかなく、韓国と台湾の円取引はなかった。しかも、日本はAPEC以外の地域協定には入っていない。こういった状況では円の国際通貨化はきわめて難しい。

(2) アジアから見た国際経済協力

 今までのような、米国市場に全面的に依存した貿易黒字(輸出志向)による経済発展は不可能となってしまった。国内市場に立脚した経済発展を行っていく必要があるのだが、アジア諸国は国内経済の規模が小さく、国内市場開発の経済効果が少ない。経済開発には、ある程度の市場規模が必要であるので、ASEANAPECをうまく使い、横の連携でアジア経済圏を確立し、それを基盤に経済発展を行うというやり方が今後きわめて重要になってくるであろう。

 経済協力は、今まではODAだけしかなかったが、民間協力が拡大している。経済協力で言われているequal partnershipも今は名目だけだが、今後は重要になるであろう。

3. 日本の経済協力の仕組みと実績

 日本の経済援助は、ODAJICA,OECFOOFが輸銀、開銀の2本だてで行ってきたが、フレキシブルに動けなくなっている。宮沢構想に見るように、対応的政策はうまいが、長期的な対応はへたくそである。輸銀は民間とも繋がりがあるので、民間とODAがミックスしたようなタイプの援助を行える可能性があるが、今まではミックスしてはいけないという原則がありできなかった。今後は、ODAでも、民間にも責任を持たすようなものが出てくる。

 実は、宮沢構想の資金はOECFではなく、輸銀から拠出される。OECFは国会の予算承認が必要だが、輸銀は国会の予算承認が不必要である。さらに、OECFは赤字機関で今後は量的拡大が難しい。援助の質を変える必要がある。

 ODAは監査がしにくい。国と国との関係なので、相手の政府に対してしか支援を行えない。しかもハコ物中心のハード的支援で、ソフト面の支援がしにくい。これでは、支援が有効であったかどうかに関し不透明性が残ったままになってしまう。

4. 経済協力の新方向

 先に、日本の経済協力はハード中心であると述べたが、日本の場合ソフト案件をやれる人材がほとんどいない。しかも近年、ハコ物援助のいい玉がなくなってきた。つまり、リスクが少なくかつ主要なインフラ開発はほとんど終了し、民間とも協力しながら進められるような案件が少なくなってきている。

 ソフト案件の中で、日本は政策形成関係の案件がほとんどできない。日本には、長期間、1つの国に張り付いて信頼関係を作れる人がいない。この点、米国はさすがで、専門化として大使を派遣し、例えば米国のインドネシア大使はインドネシアの専門家だったりする。残念ながら、日本では、インドネシアの専門化はインドネシア大使にはなれない。

 日本も、従来のIMF、世銀追従で金を拠出させられながら口を出さないODAから脱却すべき段階に来ている。しかし、日本にきちんとした外交戦略が不在なために、机上の空論で終わってしまっている。本当の国益とは何かをきちんと言えない。援助は外交政策の一環なので、日本は外交政策をどう打ち出していくのか、その中でどのようにODAを位置付けていくのかを明確化しなければならないが、現状では不透明のままである。

 2国間援助から多国間援助へ援助をシフトしていくことも重要であるが、多国間援助である世銀等との協調支援はしかし経理上一体化しているわけではない。国境を超えた場合、この多国間支援は有効で、例えばメコンデルタ開発プロジェクトのように数ケ国がからんできた場合やガンジス河のように、インドとバングラデシュがからんでくる場合、利害調整を行いながら開発していくことに大きな役割を果たす。このような複数国に河川がまたがった開発を行う場合、開発で、黄河のように、河口に水がたどり着かない河にしてしまうと地域紛争を引き起こすことになってしまう。

 日本のODAdialogue(対話)方式の改善が必要で、相手の希望をもっと良く聞き、官ベースだけでなく民(NGO)とも協調しながらもっとやっていくことが必要である。

 日本は要請主義で相手の要請を受けてやっていると称しているが、もっと透明性を持たせながら対話することが必要で、それには相手国政府の政策形成の中に入り込む必要がある。

 まだ援助学という学問分野がなく、欧米の大学のコースでも、開発経済学や国際関係論の一部を寄せ集めているだけである。若い人にODAの関心が高いので、援助学という大学講座があればいいと思っている。これは、今までの国際関係論や開発経済学とは別のきちんとした1つの体系でできればいいと思っている。

配布資料:「21世紀の開発戦略研究委員会」報告書

  訂 正  (2000.1.26付)
 「ニューズレター」(1999年月号)掲載、同年月17日開催の第78回SD定例研究会報告、アジア経済研究所尾村敬二先生「日本のODA」についての記事に対し、「『OECFは国会の予算承認が必要だが、輸銀は国会の予算承認が不必要である』という記述がありますが、実際には逆です(逆でした)。ちなみに、ご参考ながら、OECFと輸銀が統合して設立された『国際協力銀行』の予算は、国会の予算承認必要です。」との貴重なご指摘をいただきました。ここにご指摘下さった阿部様に御礼申し上げるとともに、尾村先生ならびに読者の皆様に誤った記載をお詫びし、訂正させていただきます。
(前支部長 亀山三郎 文責)


編集後記

 湿気と暑さの日本を逃れ、南半球のニュージランドに行ってきました。今回のSD国際会議はウェリントンで開催され、300人を超える参加者でとても盛況でした。会場となったプラザ・インターナショナルの前には海が広がり、太陽の射す光の角度の加減で海の色が緑から青に変わって神秘的でした。
 食事も、ニュージーランド製のラム・ステーキとワイン、そしてチーズをたっぷり堪能してきました。ニュージーランドワインは残念ながら日本市場にはあまり出回っていませんが、葡萄の香りをほのかに残した上品な甘味のある白はお勧め品です。
 国際会議に参加した日本人10人で夕食を食べました。内野先生が、メニューにMinikinの茸詰めという料理を発見し、何だろうという議論になりました。ある先生が、自信たっぷりに、きっと鹿肉であると宣言しました。出てきた料理には一切肉はなく、小さなかぼちゃが出てきました。素敵な鹿のステーキを期待していた内野先生はがっかりでした。翌日、町で八百屋の店頭に、このMinikin Pumpkinを発見しました。小さな直径10cm程度のかぼちゃで、冬場で採れる野菜なのだそうです。
 次に、食事の最後として内野先生はコーヒを頼み、カプチーノを発注しました。出てきたカプチーノの容器はラーメンのどんぶりほどの大きさがあり、内野先生は、抹茶のように容器を両手で抱えて飲んでいました。
 ニュージーランドでの食事のボリュームには圧倒されます。私も、ダウンタウンの庶民向け中国レストランで焼き蕎麦の大盛りを頼んだら、直径30cmもあるお盆のような皿に大盛りでやってきて、1/3も食べられませんでした。これでも料金は6ドル、日本円で400円ぐらいです。
  ウェリントンは人口が少ないせいか、日曜日や土曜日は人通りが極端に少なくなります。店も飲み屋以外は午後6時にさっさと閉めてしまいます。少しゴーストタウンに来た気分になります。ただ、町がコンパクトにまとまっていて、概ね30分で中心街の端から端まで歩くことができます。古本屋や古家具屋が多く、庶民は、パブでビールやコーヒーとサンドイッチ程度で粘りながら話し合いを楽しんでいました。質実なニュージランド人の生活を垣間見た思いがしました。
 日本に帰ってくると、34度という猛暑が待ち受けていました。あのニュージーランドの涼しさを半分でいいから持ちかえりたいと思いました。詳しい会議の報告は、8月の月例報告会を楽しみにして下さい。(末武記)